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1990年〜1995年
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正井徹建築設計事務所時代
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バブル景気に浮かれ27歳で自分の事務所を持ったものの、これといったディベロッパーとのつながりや営業手段があるわけでもなく、日常は下請け仕事をしながら、いつか自分の作品を作りたいと公開コンペへの挑戦を繰り返していた時代。
年々思考が内へ内へと向かっていたように思い返されます。
そこに起こった阪神淡路大震災。ちょうど、せんだいメディアテークを考えている時でした。
震災の惨状を目の当たりにし、自分は本当にこんな事をしていていいのか。表現という名を借りて、ただ言葉と形の狭間でマスターベーションしているだけじゃないのか。
それまでの全てが崩壊した事を思い出します。
震災から1ヶ月後、せんだいメディアテーク案をなんとかまとめ提出はしましたが、提出した時には結果なんてどうでもいいやと思っていました。
提出の1週間後、もう一度「建つ」という事を一から勉強しようと知り合いの工務店の門を叩き、そこでOMソーラーと出会い環境とリンクする建築の素晴らしさを知り、学び、再び独立して今があります。
そんな若かりし時代の記憶ですが、ご覧いただければ幸いです。
降順になっています。流れで見る場合は下から上へとご覧下さい。
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1995年03月 せんだいメディアテーク・デザインコンペティション案 La montage
上位46選
1等案は言わずと知れた建築の20世紀を総括するような伊東豊雄氏の案。
こんな計画案では負けて当然である。でも前述のように提出した時点で結果に興味はまったくなかった。
計画案はそれまでの「道行空間」を最大限に拡張・展開し、エスカレーターやエレベーター、ブリッジなどの移動空間を縦横に巡らせた吹抜空間<La montage>を軸に、様々な用途をあえてバラバラに配置する事で空間の活性化を目指したもの。
montageは「部分や断片の構成・編集」という意味の男性名詞Le montageではなく、monter(登る・上がる)+age(動作の行われる場所を示す接尾語)を組み合わせた造語。ゆえに女性名詞。
けれども言外に男性名詞としての意味を含み、それによって空間もまた規定されると考えた計画であるが、成功しているとは言い難い。まさに断面図と同じく机上の思考ばかりで頭でっかちに終わった案であった。
同じようなコンセプトに立つと感じられた、2等となった古谷誠章氏によるいわゆるshuffled案の方が遥かに洗練され、優れていた。
この案を最後として、正井徹建築設計事務所時代は終わる。
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1994年09月
小山市城東地区街角広場デザインコンペ案 街角の渚
佳作
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既存の公園の一角を敷地として街路空間の活性化を求めた小山市主催による実施コンペ。
下の近代文学館の片手間に計画したので、あまり深く考えず造形だけを楽しんだ彫刻的な計画案。
海に面しない栃木県に「渚」を作ろうと提案したもので、建築条件として示されていた派出所を灯台守に、公衆トイレを浜辺に置かれたボートと見立てて、道行く人が自然に打ち寄せてくるような「渚」を計画している。
当時、サザンオールスターズのレコードを聞きながら絵を描いていた事が思い返される。
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1994年08月
近代文学館設計競技案 大地と建築
特別選賞
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森林公園に隣接した自然林が残る広い敷地を使った文学館の計画を求めた仙台市主催による実施コンペ。
敷地のどこを使っても良い条件であったが、計画案では自然林を残すため、既存の人工物が点在した谷地に建築を置き、ボリュームの大半を地下空間とする事で山肌をできるだけ傷つけないないように計画している。
「道行空間」のコンセプト要素も維持してはいるが、思考エネルギーのほとんどを谷地の地形に合せてボリュームを置く事に費やしてしまったため、中途半端な状態で終わっている。
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1等案は谷地をまたぐブリッジ案。
表彰式で審査委員のお一人から「谷地の地下に、博物館の生命である展示室や収蔵庫といった空間を持ってくるようなプランニングは、絶対に避けるべき。それが建築としての基本です」と言われた事が、良くも悪くも心に残ったコンペであった。
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1994年03月 小町の舎デザインコンペティション
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京都府建築士会主催による京都府大宮町に建てる観光展示施設の実施コンペ。
展示室の北面を山裾に開放し、人工物である展示品との狭間を人が行き来することで、訪れる人にこの地の今と昔という時間を感じ取ってもらおうと考えた計画案。
木造という条件であったが、いま見るとまったく木造を理解していなかった事がよく分かる。
競技記録本に書かれた宮脇檀審査委員長の当選案にまで及ぶ痛烈な批評は、いま読み返しても心と頭にビシッとくる文章である。
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詩人中原中也の生誕地を敷地として、彼の遺品や様々な文献を集めた文学館の計画を募った山口市主催による実施コンペ。
バブル崩壊後の不況で全国的に設計事務所が暇だったこともあって、当時としては稀にみる応募数となった国内公開コンペだった。
下のコンペとほとんど同時期にエスキースしていたこともあり、「道行空間」をはじめデザインアイテムも似かよっている。
人間関係に果てしない喪失感を抱き、現実に傷つきながらも暗い内面を抑えていなければならなかった中原中也の「うつろさ」を「道行空間」での「うつろい」に置き換え、最後は空へと視線を昇華させる事で、中也の内世界を空間化する事を試みている。
ここでは土の楕円筒は中也の心の内のやさしさを表し、白い外壁は外界と中也の心を分かつ壁として表現している。
いま見るとデザイン面ではかなり未熟なところもあるが、「物語る建築」としてはある程度完成の閾に達していたと言える。
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下図: コンペ後、山口県立美術館で開かれた「詩人のための建築展」に出展したドローイング
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1992年06月
21世紀KOBEの住まいコンクール案 Cray house Glass house
佳作
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神戸市山間部の開発地で、地域のモデルとなる住宅を募ったディベロッパー主催による実施コンペ。
計画案は上の中原中也記念館と同様に「道行空間」を主題として、人工なるもの=Glass house、自然なるもの=Cray houseという二つの空間を巡る(=住む)事により、豊かな住環境を生み出そうとしたもの。
そこには、自然を切り捨てた開発地、主催者への批判も暗示させている。
それを考えると、佳作とはいえ、よく入賞したものだ。
今ふり返ると、この頃から少しずつ、建築と自然との「間」について考えていたように思う。
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1991年12月
ヨコハマポートサイド地区
水際公園設計コンペ案
横浜の地理に疎く、当時の資料も残っていないので、横浜のどこだったか記憶が定かでないが、埋立地の護岸公園を対象とした実施コンペ。
こんな程度の思い入れなので落選するのも当然。
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旧伊丹郷町と同じく、デザインアイテムとして弓形にこだわっていて、それをライトセールという、いわば巨大な照明器具に仕立て、公園中に展開しようと提案した計画。
ただ、それ以上にはなんのコンセプトもなく、崩壊したとはいえ、まだまだバブリーだった世の中にあっては、華やかさに欠けた案だったのかもしれない。
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1990年08月
旧伊丹郷町モデル住宅設計競技案 路地のある家
最優秀賞(建設大臣賞)
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生まれてはじめて応募したコンペ案。
歴史的街並みを保存する地区の住宅モデルをつくるため、地区住民からコンペ対象敷地を公募し、伊丹市が主催となって開かれた実施コンペではあったが、事務局の段取りが悪く、最優秀案だったにもかかわらず実施には至らず。世の中の難しさを知る。
この頃ずっと考えていた「道行空間」をストレートに路地という形で表現した計画。デザインアイテムとして弓形にこだわっていた頃でもある。
表彰式の際、高橋■一審査委員長から年齢を聞かれ、29歳とお答えしたら、「20代でこの老練さはなんなんでしょう」とたいへんに驚かれた事が思い出として残っている。
確かにいま見るとまったく若さが感じられない案ではある。
■=青ヘンに光
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